■2014年2月12日
インタビューしたい人のリストが、どんどん増えていく。
田中さんは「あなたに任せたのだから、あなたの思う人を取材すればいいの」と言ってくださるが、人選はほんとうにこれでいいのか?
お名前は挙げたものの、いずれも会ったこともない、お顔さえ知らない人ばかりである。この方たちは、はたして私のインタビューを受け入れてくださるだろうか…と、怖さの方が先に立つ。
そのなかで『ユキエ』の劇場用プログラムに映画評を書いてくださった樋口恵子さんとはお会いしているが、それももう15年も前のことで、樋口さんはきっと私のことなどお忘れだろう。
『レオニー』公開のとき「婦人公論」の対談で、上野千鶴子さんとも一度だけお会いしている。あの日、「話が弾まなかったらどうしよう…」
こわごわ出かけた初対面の場で、上野さんは終始優しく、温かな人だった。
その日の話題は『レオニー』のことに終始してまったく他の話はできなかったが、このテーマに取り組むなら、ここはぜひとも「フェミニズムの生き字引」に違いない上野さんの力をお借りしたい。
でも、私ときたら対談の翌日にお礼のメールを一通送ったきりで、ご無沙汰のしっぱなしである。私から連絡を差し上げる勇気はなかった。
田中さんに電話して「上野さんに会わせてください」とお願いする。
■2月17日
四谷駅前のアトレで、田中喜美子さん、「わいふ」の現編集長前みつ子さんとともに、上野千鶴子さんと会う。
「それは今しかできないわよ!田中さん、私費を投じてまでして よくぞそんなことを考えてくれました。尊敬します!」
と言って、上野さんが全面的に協力してくださることになった。なんて心強いことだろう。私が示した取材希望者リストにも、さっそく的確な意見とアイデアがかえってくる。
でも、このプランを全部実行するには、
「田中さんから頂くお金だけでは到底できません」と正直に打ち明けると、
「何を言ってるの?松井さんはマイレオニーをしたじゃないの。私も協力するから、募金を集めましょうよ!」
上野さんは、対談でお会いしたときのまま、温かく、力強い方だった。
彼女を味方に引き込んだのは正解だったと、一気に希望がふくらんだ。
■2月20日
田中さんと、リブ時代のキーパーソンのお一人と伺った麻鳥澄江さんに会いに行く。
日ごろは電車に乗ることなどほとんどないという84歳の高齢夫人が、ラッシュアワーの時間に、電車を何回も乗り継いで、隣の県まで出かけていく。インタビューを受けて欲しいと口説くために。この情熱はどこから来るのかしら…と、頭を下げずにいられない。
二十数年ぶりの再会というフェミニストたちの語らいは、深夜まで及んで、田中さんのお疲れのご様子が、ちょっと心配。これからは田中さんに頼ってばかりいないで、何でも自分でしなくては…。
■2月25日
なんでも自分でしなきゃといえば、今回のスタッフ編成ときたら!あの夢のような『レオニー』の体制との、なんという違い?
友人の制作会社から有能で几帳面なI氏を借りて、小さなカメラを2台揃え、回すのはI氏と私の二人きりですることになるだろう。13億の製作費で私の下に総勢470人のスタッフが働いた日米合作映画のあとは数百万でつくる小さな小さなドキュメンタリー。
この落差のあまりの大きさ。わくわくする。
そして何より、目の前に真正面から向き合うべきものができたことに感謝せずにいられない。田中さん、ほんとうにありがとう。
編集もPCに得意なI氏と二人で、自宅ですることになり、さっそくビッグカメラにカメラや編集ソフトを買いに行く。
■2月27日
一週間ほど前、リストに挙げた方々にご挨拶と取材依頼のメールをお送りしておいた返事が、ぼちぼち返ってくる。
作品に登場して頂く方々は皆さん高齢で、あちこち動き回っての取材は望めそうにない。ドキュメンタリーと言っても今回はインタビューだけの、いわば証言集になるだろう。皆さんの話の中身が勝負の作品になるはずだ。
そして、日本のリブとフェミニズム、その歴史をたどるよりも、インタビューではお一人お一人が女として生きてきた個人的な体験を伺ってみたい。
映像に変化は望めなくても、それぞれの方々の目の輝きや、顔の皺、そして彼女たちの発する言葉にこそ力があるはずだ。「個人的なことは政治的である」というフェミニズムのスローガンどおり、あくまで「個人史」に迫りながらフェミニズムとはなんたるかをあぶり出すような作品にしたい。インタビューがすべてだ。