ドキュメンタリー映画 何を怖れる -フェミニズムを生きた女たち-

監督メッセージ・松井久子

IMG_1064

私たちは3.11を経験し、いまだ被災者たちの苦しみが続いているなかで、政府の原発再稼働の動きを止められないでいる。広島・長崎を経験した世界唯一の被爆国に生きながら、原発輸出の政策をストップさせることもできない。

「経済大国の座からすべり落ちてもいいのか?」「他国が武力攻撃を受けているとき、仲間を支援できる国にならなければ、世界と対等になることはできない」そんな男たちの脅しで、日本はふたたび<戦争のできる国>に向かおうとしている。

何やら歴史の時計が逆戻りしているような薄気味悪さであるが、もともと経済優先主義もナショナリズムも、男性の価値観である。
ここまで来れば、この国を救えるのは私たち女ではないか?

そんなことを感じていたとき、今年創刊50年を迎えた主婦の投稿誌「Wife」の元編集長・田中喜美子さんにお会いすることができた。

83歳になられても輝くばかりに美しい田中さんに、老いの影はみじんも見られない。
「この年になると、仲間がどんどん死んでいくのよ。私たちフェミニストがしてきたことを記録に残しておきたいの。あなた、撮ってくれない?」
つねに新しいことに挑戦しつづけるひとの言葉に、最近丸くなりかけていた背中が、シャンと伸びる思いであった。

7年半をかけて製作した『レオニー』以降、私はふたたび映画をつくる可能性を完全にうしなっていた。男たちでなる映画界の壁は高く、厚く、女性監督という立場に言いしれぬ無力感でいっぱいになっていたとき、頂いたドキュメンタリーの話はとても有り難かったが、テーマが「フェミニズム」ということで、やはり躊躇の方が先に立った。
なぜなら私は70年代のリブ運動をになった女性たちと同世代でありながら、彼女たちの誰とも面識がない。なんの根拠もなく彼女たちをただ「こわい人」ときめつけて、勝手に距離をおいてきた、私はいわば「フェミニズム・コンプレックス」の女だったのだ。

リブの彼女たちが社会に向けて必死で「NO!」と叫び続けていたとき、自分は男との恋愛にうつつを抜かし、彼女たちの批判していた結婚制度に何の疑いも持たず結婚してしまったこともある。また、30代の半ばに離婚して、男たちでなるマスコミや映画界で働きつづけるようになってからは、ずっとその社会から外されまいと「フェミニズム」には見て見ぬふりをつらぬいてきた身でもあった。
そんな私にフェミニストたちの映画を作る資格があるのか?

が、資料を読み進めるうち、このテーマこそ今の私が真正面から向き合うべきものだと気づかされることになった。
あのころ20代、30代だった彼女たちは、当時から膨大な著作物を残しているが、それらを読めば自分が「リブ」について大きな誤解をしてきたことがすぐにわかる。
そして、彼女たちの「リブ」とは「女性として生きることを根底から問いつめる」運動だったことが理解できたとき、田中さんから与えられたこの仕事を、どうしても自分の手で形にしたいと考えるようになっていた。
自分の中でながい間、見てはいけないもののようにして、きつく蓋をし、放置してきた宿題に、今こそ心して取り組むときがきたのだと思う。

日本のリブとフェミニズム運動の先頭を走ってきた彼女たちが、個人的にどんな女としての人生を生きてきたのかー。それを聞くことができれば、そのまま日本のフェミニズムの歴史を描くことになるにちがいない。
劇映画をつくってきた私の興味は、イデオロギーよりも人間にある。
あれから40数年、彼女たちはそれぞれの青春時代を、女としての半生を、そして今迎えた老いのときを、ありのままに語って頂きたい。 彼女たちは特別な人びとであっても、その話のなかには、きっと誰にも共通の「女の問題」がひそんでいるにちがいない。

ここで、彼女たちに正直に語ってもらうためには、まず私自身の個人的な人生を打ち明けねばならない。
私は若い頃、良妻賢母を目指す、おろかで平凡な娘だった。
20代半ば、あつい恋愛の末に結婚してからは、夫のDVに苦しみながら、我慢強い妻を生きていた。10年後、離婚して以降は、メディアという男社会のなかで居場所を確保するのに必死だった。50歳になって、映画をつくり始めた頃から自分の作品のテーマが「女のこころの叫び」に向かったのは自然なことであり、また必然であったと思う。が、それでも私は、つくる場を奪われることや、自分が観客と定めた女性たちから敬遠されることを怖れて、自ら「フェミニスト」と名乗ることを拒否し続けてきたのである。自分がDV被害者であったことも、ずっとひた隠しにしてー。

このドキュメンタリーをつくる機会を与えられたのを機に、そのような過去を精算することにしよう。
何も怖れることはない。遅ればせながら、この作品に登場する彼女たちのように、女として生きることの問題を真正面から見つめ、女に生まれたことを胸張って受け入れ、もう一度生き直すことにしよう。
きっと私のように、社会のしくみや、育った環境や、教育によって、知らぬ間に「自分でつくった壁」を壊せずにいる女性たちがたくさんいるにちがいないから。

「個人的なことは政治的である」

このリブの有名なスローガンを、私たちは今こそ噛みしめねばならない。
上野千鶴子さんは言う。「現在この国を覆い尽くしつつあるネオ・リベラリズムのもとでは、男も女も「勝ち組」と「負け組」とに分断されていってしまう。そういう分断化の動きにどう抵抗するか、という課題はもう避けることができない。ネオ・リベとは「優勝劣敗」「自己決定・自己責任」の論理で、しかも土俵とそのルールが最初から「勝ち組」に有利にされている欺瞞的なルールである。今の若い女性たちは、下手に選択肢が与えられているかのような幻想を持っているがために「自己責任・自己決定」というネオ・リベの論理に絡めとられて、それを自ら内面化している。彼女たちは自分の才能とエネルギーを、他の女たちと繋がるためでなく、他の女を出し抜くために使っている。実際に出し抜ける構造ができてしまってもいる」と。

格差社会が進むなかで、私たち世代の若い頃よりも「生き難さ」に苦しむ女性たちが増えている。そんな若い女性たちのために、これまでフェミニズムと距離をおいてきた人間だからこそ見えるものをすくい取り、作品に登場する女たちの勇気ある人生を通して、後につづく娘たちへの贈りものになるような作品をつくりたい。

  • Facebook
  • Hatena
  • twitter
  • Google+
  • LINE
PAGETOP
Copyright © 何を怖れる All Rights Reserved.